大江広元に関して、これまで最も注目されてきたのは、1185年(文治1)11月12日条の、広元が「守護地頭」設置を献策したという下りである。かつてはこれが「守護地頭」の始まりとされた。そして、同年11月28日条には、北条時政がその「守護地頭」の設置を朝廷に要求したとある。しかし、同じ事実を書き記した九条兼実の日記『玉葉』には、「守護地頭」とは書かれていない。そこには「件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行すべしと」とある。
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1960年に石母田正は、「鎌倉幕府一国地頭職の成立」[17]などでこの問題に鋭く切り込み、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘した。そして、この石母田の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起り[18]、この「守護地頭」設置の時期は「国地頭制」として守護制の前段階と解されるようになった。
北条時頼の遺曷
北条時頼について八代国治が指摘するのは、1263年(弘長3)11月22日条の卒去の記述である。時頼の「頌云」[19]の「業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然」は、『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。しかし別人の遺曷を本人の遺曷として紹介することは、後世の史料にはよく見られることである[20]。その例としては、『扶桑五山記』にある蘭渓道隆の遺曷があり、そこでも妙堪の遺曷が使われている[21]。当然ながら蘭渓道隆が人の遺曷の盗作を行ったわけではなく、蘭渓道隆本人の遺曷は別に存在する。
北条時頼の遺曷に戻れば、『吾妻鏡』とそれほど深い関係があるとは見られていない『鎌倉年代記』にも北条時頼の遺曷として『吾妻鏡』と同じく妙堪のものを載せており、益田宗は「時頼が死んだ弘長3年(1263)から、吾妻鏡の編纂時期まで3?40年ある以上、巷間に作られていた時頼遺曷なるものを、編纂者がそのまま本文に採用したと考えるのが当たっているのではあるまいか」[22]とする。
吾妻鏡の曲筆と顕彰
『吾妻鏡』に北条得宗家の顕彰、そしてその為の曲筆が非常に多いことは古くから指摘されており、例えば江戸時代後期の国学者大塚嘉樹(よしき)は『東鑑別注』 [23] において、1186年(文治2)4月8日条の静御前に鶴岡八幡宮で舞をさせたときの記事、1189年(文治5)4月18日条の北条時房(当初時連)の元服記事、1192年(建久3)5月28日条の北条泰時の記事などを挙げて『吾妻鏡』編纂者による北条氏顕彰の為の曲筆と断定した。また土佐の宮地仲枝は「東鑑の考」 [24] において、1201年(建仁1)10月6日条の記述を紹介し「此文などかの家の記録とあらずとせんや」としている。
吾妻鏡の曲筆
それらの中で、北条時政を、あるいは義時の行動を正当化するの為の曲筆とされている代表的な2例を紹介する。
源頼家
『吾妻鏡』の曲筆のもっとも甚だしいのが頼家将軍記である。源氏が三代で終わったのはこういう不肖の息子が居たからかだと誰しも思うが、それが真実の姿であった証拠は何もなく、逆に曲筆と疑われるものは無数にある。曲筆の確実なものは、源頼家の最期である。頼家が将軍の座を降りたのは『吾妻鏡』によると1203年(建仁3)9月2日の比企能員の変の直後、9月7日条での頼家出家であり、9月10日条で源実朝が将軍を継ぐことを決定したとある。そして、その頼家の死は翌年の7月19日条とある。
しかし、1203年(建仁3)9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が、同年9月7日早朝に京の朝廷に到着し、実朝を次期征夷大将軍に任命するよう要請していることが、近衛家実の『猪隅関白記』、藤原定家の『明月記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などによって知られている。『吾妻鏡』によれば頼家が存命どころか、まだ出家(引退)もしていないにもかかわらずである。この当時の鎌倉と京は、普通の使者ならば2週間、至急の知らせでも約1週間かかり、早馬を乗り継いでも9月1日か2日に鎌倉を出発していなければならない。仮に9月2日に鎌倉を発ったとしても、比企能員の変は同日夕方近くに起きた事件であり、頼家の将軍廃立は当初より予定されたことか解る。
畠山重忠
『吾妻鏡』の中では、畠山重忠の乱で人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は、北条時政の後妻で悪名高き牧の方とされ、北条義時は1205年(元久2)6月21日条で畠山重忠の謀殺に反対し、父時政に「今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし」と熱弁をふるう。これはその後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。原勝郎はこれを評して「若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべしと述べている[26]。
得宗家の顕彰
先の2例は、北条氏の行動の正当化の色合いが強いが、次ぎに顕彰の代表例を、時政、泰時、時頼の3人について紹介する。内2例は顕彰の為の露骨な曲筆でもある。
北条時政・文治2年5月6日の院宣
1185年(文治1)11月25日から翌1186年(文治2)3月27日頃まで、北条時政は頼朝の代官として在京していた。この頃より1187年(文治3)頃までは、京と鎌倉の間で緊迫した政治折衝が行われていた時期であり、『吾妻鏡』には院奏や院宣、頼朝から公卿への手紙などが多数掲載されている。
そうした院宣のひとつに、後白河法皇が北条時政を褒める一文が間に挟まっている。1186年(文治2)5月13日条にある5月6日付けの院宣である。この時政顕彰の文を飛ばして読むと、非常に文意のはっきりした院宣らしい文章になり、龍福義友[27]は、これを「時政顕彰の為の捏造[28]」と推定する。また、それとも関連する1186年(文治2)5月20日条にある頼朝の院奏の趣旨の前半は『吾妻鏡』編纂者が想像で補ったものであり、これには物的証拠がある。同年4月20日に頼朝が出した院奏の実物が、九条家の古文書の中から発見されているのである[29]。『吾妻鏡』の記述と院奏の実物はテーマは同じであるものの、主張している内容は全く異なる。それらの事から、同年5月6日の院宣に出てくる「去月廿日の御消息」は編纂者の元にはなく、しかしそれに言及しなければ話はつながらないと想像で補った(偽造した)ものであろうと見られている。
この時期は鎌倉幕府の性格を決定する非常に重要な時期であり、『吾妻鏡』はその最も重要なまとまった史料であるが、そのなかには以上のような例も混在し、非常に注意深く読んでいかなければならない箇所とされる。
北条泰時・正治2年4月8日条
北条泰時の顕彰で象徴的なものが1200年(正治2)4月8日条である。女院殿上人であった若狭前司保季(藤原保季)が、御家人の郎従(武士)の妻と白昼密通していたところへ、夫が六波羅から帰ってきた。怒ったその武士が太刀を取って保季を追い、斬り殺した。その武士を捕らえてあるが、どう裁いたらよいだろうと京の六波羅から鎌倉に早馬が来る。それに対して大江広元から意見を求められた北条泰時は、「郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害するなど、武士の本分にもとる行為だ。それも白昼路上で行うなどもってのほか。直ちに厳罰に処すべきである」と言ったとある。 この記述は盗作である[30]。この事件は、実は藤原定家の日記『明月記』同年3月29日条に書かれており、泰時が語ったという台詞は藤原定家の感想(憤慨)[31]を写したものである。
北条時頼・仁治2年11月29日条
1241年(仁治2)11月29日条と翌30日条にはこう書かれている。有力御家人の三浦氏と小山氏との間で、ささいなことからあわや一戦にという事件が起った。北条経時は、この事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと、配下の者を武装させて差し向けた。それに対して経時の弟の北条時頼は、酒の場での喧嘩だからと静観していた。 二人の祖父である北条泰時は「各々将来御後見の器なり」、つまり二人とも将来執権になろうという者であるのに、兄の経時は「諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。所為太だ軽骨(軽率)なり、暫く前に来るべからず」と怒った。一方、弟の時頼には「斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」と褒めて領地を与えたというのである。時頼が15歳のときである。
兄の北条経時は、祖父泰時の後を継いで19歳で第4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り出家、その直後に死亡する。そして『吾妻鏡』は、そもそも時頼の方が優れていて、泰時の眼鏡にも適っていたのだと言っている。
吾妻鏡の原資料
吾妻鏡の原資料の全体像について際だった研究を行ったのは、大正時代の八代国治と最近では五味文彦である。五味文彦は『吾妻鏡』の原史料として3つの類型「幕府事務官僚の日記・筆録 」「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」が浮かび上がるとする。ここでは説明の都合上「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」に「京系の記録」を追加して先に説明し、最後に将軍記毎に「幕府事務官僚の日記・筆録」を見ていく。
後に提出された文書
地頭・御家人、寺社などから、訴訟の証拠や由緒として提出されたと思われる文書である。しかし訴訟の証拠書類だろうと思われるものの中には、明らかに偽文書と思われるものが混じっている。1205年(元久2)閏7月29日条にある河野通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書はその代表例である。それらのことから幕府の中に保管されていた文書は実はほとんど無く、後世に提出された書類から採録したものがかなりの量に及ぶだろうと推測される。有力御家人の伝承の項で触れた1192年(建久3)8月5日条などは千葉氏の家伝と思われる。
幕府中枢に残る公文書類
次は公文書類である。それらは政所などの役所に保管されていたものもあろうが、その文を書いた事務官僚の下書きが、あるいは得宗家の寄合での決定が、政所や問注所の執事の家に伝えられて『吾妻鏡』の編纂時に利用されたと思われる。1232年(寛喜4)12月5日条に、北条泰時が「所処に散在」してしまった大江広元時代の記録を集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったとあり、その記事自体が、長井泰秀の家に保管されていた記録が『吾妻鏡』に利用されたであろうことを物語っている。頼朝将軍記に多数見られる朝廷からの院宣などもそこに含まれていたと思われる。1185年(文治1)12月6日条にある「院奏の折紙状」は『玉葉』が情報源とも見られていたが、平田俊春はこれを詳細に検討[32]して、幕府政所にあった案文に拠ったのであろうと推定し、以降それが定説となっている。
京系の記録
大正時代初期の八代国治は、『吾妻鏡』と諸史料との突き合わせを行い、公卿の日記その他京系の多く史料が原史料となっていることを見つける。そして『吾妻鏡』の該当箇所と、オリジナルであろうとするものの該当箇所計29ヶ所を具体的に紹介した。その内、藤原定家の『明月記』が史料として使われている部分が非常に多く、14ヶ所とほぼ半分を占める。それらのことから、『吾妻鏡』は日記の体裁を取りながらも、明らかに後世の編纂物であると八代は断定した。
八代国治が指摘した文献との関係ついては、先に触れた通り『玉葉』については否定され、また五味文彦は『平家物語』や『承久記』、そして平田俊春が戦前に主張[33]した『六代勝事記』も使われた形跡は無く、それらの元となった史料合戦記などを利用したのではないかとする。そうした修整はあるものの『明月記』の他、『金槐和歌集』からの引用などは確かに確認され、後に佐藤進一は『飛鳥井教定記』も原史料のひとつに加えている[34]、五味文彦は『十訓抄』なども二階堂行光の顕彰記事に利用された可能性があるとする。