2009年07月02日

九州本島は筑紫島と呼ばれていた

古代では、九州本島は筑紫島と呼ばれていた。はじめは筑紫国・豊国・肥国・熊曾国と呼ばれる古代勢力が存在していたが、その後ヤマト政権に下り律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立。824年以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国島嶼部2国となった。また、現在の太宰府市には対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ね、西海道の統轄として大宰府が設置された。
中世には、博多が中世都市として栄える。摂津国の渡辺氏の分流の松浦氏の一族や、藤原純友の乱において勲功のあった大蔵春実、橘公頼などの子孫が土着し、在地の豪族となる。
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平家の勢力圏であり、九州の武家は平家方に属したが、源平合戦の趨勢から菊池氏や松浦氏をはじめ諸氏は源氏方に寝返り、鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭に補任される。

しかし、九州の武家は親平家方であったため、源頼朝は「戦後処理」として、九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の少弐氏や島津氏、大友氏を守護として九州に送り、これらの「下り衆」が勢力を強め、菊池氏や松浦氏、秋月氏などの在地の武家を抑え、その後の九州の武家の中枢となる。

鎌倉時代には2度に渡る元寇があり、少弐氏など北九州の武士を中心に撃退した後に鎮西探題が設置される。

2009年06月13日

双曲幾何学(そうきょくきかがく)

双曲幾何学(そうきょくきかがく)またはボヤイ・ロバチェフスキー幾何学とは、まっすぐな空間(ユークリッド空間、放物幾何的空間)ではなく、負の曲率を持つ曲がった空間における幾何学である。ユーグリッド幾何学の検証ということでサッケリーなども幾つかの定理を導いているが、完全で矛盾のない公理系を持つユークリッド幾何学ではない新しい幾何学と認識してまとめたのは同時期にそれぞれ独立に発表したロバチェフスキー(1829年発表)、ボヤイ(1832年発表)、ガウス(発表せず)らの功績である。

ユークリッドのユークリッド原論の5番目の公準(任意の直線上にない一点を通る平行な直線がただ一本存在すること、 平行線公準)、それを否定する公理を付け加え、その新たな平行線公理と無矛盾な体系として得られる幾何学である非ユークリッド幾何学の一つである。双曲幾何学の場合には、「ある直線 L とその直線の外にある点 p が与えられたとき、p を通り L に平行な直線は無限に存在する」という公理に支えられて構成される。

双曲幾何学では、ユークリッド原論の平行線の公準以外の公理公準はすべて成立する。これは平行線の公準が独立した公準であり、ほかの公準からは証明できないということである。なぜならば他の公準から証明できるとすればその他の全ての公準が成り立つ双曲幾何学でも平行線の公準が成り立つはずだからである。この幾何学は、もともと平行線の公準をユークリッド原論のほかの公準から証明しようとして作られた幾何学だが、皮肉なことにこの幾何学により平行線の公準は独立でほかの公準からは証明できないことが証明された。

例えば、平面においては任意の直線にその直線上にない一点を通る平行線は一本しかないが、無限に開き続ける漏斗のようなものにおいては、任意の直線にその直線上にない一点を通る平行線は無限に存在することになる。

このような面はベルトラミーの擬球面と呼ばれ、双曲幾何学の成立する面(双曲平面)の一種である。また、ベルトラミーの擬球面などの双曲平面は、双曲幾何学が完成した後に発見された。
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以上は数学的な双曲幾何学だったが、物理学的な双曲幾何学によりこれを現実の世界に応用することができる。 高速で回転する円盤上ではローレンツ収縮により物体の長さが縮む。このとき円盤の中心から遠ざかるにつれて回転速度が速くなるため、端に行くほどローレンツ収縮の効果が強く出ることになる。このような場合では二点間を結ぶ最短距離は(円盤の直径をのぞいて)回転の遅い中心よりの線になり止まった状態の円盤から見ると曲線になる。つまり高速で円盤を回転させたために直線が曲がり3次元の空間が負の曲率を持ったのである。

2009年06月09日

公衆衛生(こうしゅうえいせい、Public Health)

公衆衛生(こうしゅうえいせい、Public Health)は、集団の健康の分析に基づく地域全体の健康への脅威を扱う。健康は多くの機関により、さまざまに定義されている。疾病の実態調査の標準を設定・提供する国際連合の機関である世界保健機関は、健康を「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」と定義している。

公衆衛生は多くの分野からなる。しかし典型的な区分としては疫学、生物統計学、医療制度がある。環境・社会・行動衛生、職業衛生も、重要な分野である。

世界保健機関は公衆衛生を「組織された地域社会の努力を通して、疾病を予防し、生命を延長し、身体的、精神的機能の増進をはかる科学であり技術である」と定義している。
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大学の教室の名称等で公衆衛生学と称される場合もある。

臨床医学が個人水準で健康を扱うのに対して、公衆衛生は社会水準で健康を取り扱う。例えば、生活習慣病対策・伝染病(感染症)予防・公害対策・上水道・下水道・食品衛生など社会保障の基礎となる分野について研究する。

類義語に衛生学がある。

近代の公衆衛生は、19世紀に英国のロンドンでコレラの流行が起こったときに、流行エリアを分析し、ある上水道や井戸を利用した人たちを中心に感染が広がっていたことから感染源を特定するに至ったこと(ジョン・スノーによる疾病地図の作成)に始まるといわれている。(当時はコレラ菌は発見されていなかった)

日本においての公衆衛生の歩みとして、1722年(享保7年)に徳川吉宗の設けた目安箱への投書がきっかけで設立された小石川養生所の存在がある。

明治の文明開化以降の近代的な「公衆衛生」に相当する概念としては、当時医学の諸制度はドイツに倣っていたことが多かったため、ドイツ流に「独Hygiene(衛生または衛生学)」、あるいはイギリスの制度を模倣して導入されていった。 1874年(明治7年)に医制が公布され各地方に医務取締を設置、その後1879年(明治12年)には中央衛生会(地方には衛生課)を設置、公選によって衛生委員が置かれる、といった民主的な体制を布いた。しかし、1885年(明治19年)に廃止、1893年(明治26年)には、これらの機能を警察部に移管、上意下達式になった。これは、中央集権型政治体制に移行してきたこととともに、当時の急速な感染症拡大へ対応を素早くとりたい意図もあった。

昭和13年3月29日より、国立公衆衛生院が公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として事業を行ってきが、太平洋戦争降伏後、連合国軍最高司令官総司令部のもと、アメリカ教育使節団報告書の勧告により、全国の医学部に公衆衛生の講座が設置された。

2009年04月25日

コンスタンティウス・クロルス

フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス[1](250年3月31日 - 306年7月25日)はローマ帝国の皇帝(305年 - 306年)。一般にクロルス(ギリシア語で「青白い」の意)と呼ばれているが、これは後のビザンツ帝国時代の歴史家達が付けたあだ名である。コンスタンティヌス1世の父で、コンスタンティヌス朝の創始者である。

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『ローマ皇帝群像』によると、コンスタンティウスは、ダルダニアから来た貴族エウトロピウスと、皇帝クラウディウス2世や皇帝クインティルスの姪にあたるクラウディアとの間に生まれた息子である。[2] しかし、歴史家の多くは、この系譜は彼の孫コンスタンティヌス2世帝による捏造で、地位が高い2人の末裔に見せかけたかったのだろうと考えている。カルス帝の下で彼はダルマチアの領主となり、さらにカルス帝は、自らの放蕩息子カリヌスに代わって彼を後継者にしようと考えていたといわれる。

293年、皇帝ディオクレティアヌスがテトラルキア(四分統治)を制定し、ローマ帝国を西側と東側とに分割した。どちら側も正帝が支配し、副帝がそれを補佐した。ディオクレティアヌスは東側の帝国の正帝となり、ガレリウスを彼の副帝とした。コンスタンティウスは西側の正帝マクシミアヌスを補佐する副帝に任命され、マクシミアヌスの義理の娘であるヒラビア・マクシミアーナ・テオドラを妻とした。2人の間には6人の子が生まれた。コンスタンティウスには、小アジアのニコメディア出身の先妻(または妾)ヘレナ(en:Helena of Constantinople)との間に息子がおり、これが後のコンスタンティヌス1世となった。[4] コンスタンティウスは、ガリアとブリタンニアの支配を任され、さらにおそらくはヒスパニアも支配を任された。

2009年04月08日

スラッシュメタル

スラッシュメタル (Thrash Metal) は、音楽のジャンルの一つ。従来のヘヴィメタルにハードコアの過激さを加えた音楽形態を指す。なお、『Thrash』とは「ムチ打つ」という意味の言葉である。

音楽性 [編集]
NWOBHMとハードコアの私生児ともいえる音楽性で、ギターソロよりもギターリフに趣を置き、スピード感を重視した楽曲が多かった。

特に1980年代初め頃にはメタリカのファイト・ファイヤー・ウィズ・ファイヤーや、スレイヤーのケミカル・ウォーファーが、世界最速の楽曲として話題に上ることもしばしあった。

それまでのハードロック、ヘヴィメタルといえばバンドの花形はリードギタリストであり、ギターソロの速弾きこそ最大の見せ場であった。対してスラッシュメタルは速弾きこそあれど、楽曲の中心はギターリフであり、高速なもの、複雑なもの等さまざまなギターリフを開発していった。

ただし、速さのみを追求していたわけではなく、スピード感を際立たせるため一曲の中、あるいはアルバムを通して緩急をつけるなど工夫もされていた。

とりわけ凶暴さや粗野が強調されがちなスラッシュメタルだが、メタリカのようにアコースティック・ギターを入れたり、バラード調の楽曲を入れるバンドもいた。

ヴォーカルに関しては、音程をあまり重視しない叫び声やハードコア的ながなり声のようなスタイルが多い。一方でハイトーンで伸びやかにメロディを歌うヴォーカリストもいた。楽曲に合わせ歌詞も速く、ネイティブスピーカーでも聞き取れないほど速い物も多くあった。特にスレイヤーのヴォーカルの速さはラッパーたちにカルチャーショックを与えたといわれている。

ドラムも例に漏れず速く手数が多い。BPM200以上でバスドラムを16分で打ったり、バスドラムとスネアを8分で交互に叩くいわゆる「2ビート」(正確には2ビートではない)が特徴。スレイヤーのデイブ・ロンバートやアンスラックス、SODのチャーリー・ベナンテ、ダーク・エンジェル、デスのジーン・ホグラン等の名手がいた。

概略 [編集]
スラッシュメタルはNWOBHMをより攻撃に発展させたものだといわれている。 また、ヘヴィ・メタルにとどまらずディスチャージなどのハードコア・パンク・バンド、キリング・ジョークなどのポスト・パンク・バンドの影響も大きかったといわれている。

スラッシュメタルの誕生に関しては諸説あるが、メタリカ(Metallica)が「Hit The Lights」をコンピレーションアルバム「Metal Massacre」(1981年)に提供したのを始まりとする意見が多い。 しかし、この頃のメタリカは過激なNWOBHMの域を出ておらず、ヴォーカルスタイルもダイアモンド・ヘッドのシンガー、シーン・ハリスを多分に意識した歌唱法であった。

メタリカの誕生とほぼ同時期に、ニューヨークではアンスラックス(Anthrax)、ロサンゼルスではスレイヤーが活動開始し、アンダーグラウンドシーンに於いて人気を獲得していった。 メタリカを解雇されたギタリストのデイヴ・ムステインはロサンゼルスでメガデス(Megadeth)を結成した。

また、1980年代初頭のサンフランシスコ・ベイエリアには、メタリカのギタリストのカーク・ハメットがメタリカ加入前に結成したエクソダスや、レガシー(後のテスタメント)といったスラッシュメタル黎明期を支えたバンドが多くいた。これらのバンドは『ベイエリア・クランチ』といわれる、ザクザクとしたギターサウンドを特徴としていた。

LAメタルが興隆を誇っていたロサンゼルスでは、ショーアップされた商業優先のヘヴィ・メタルが盛んであったが、サンフランシスコ・ベイエリアでは、より無駄な装飾を廃した過激な音楽の人気が出始めていた。 後にメタリカも拠点をサンフランシスコに移し人気を確立していった。

アメリカに先んじてメタリカの人気に火がついた欧州では、よりヴェノムの影響を色濃く感じさせるソドム(Sodom)、クリーター(Kreator)、デストラクション(Destruction)といった3バンドを筆頭に、ジャーマンスラッシュという苛烈なスラッシュメタルが人気を博していった。

1985年にアンスラックス等のメンバーらによって結成された、サイドプロジェクトS.O.D.w:Stormtroopers_of_Deathによって、スラシュメタルとハードコア・パンクのクロスオーバーがおこった。 以降、それまで互いに相容れなかった、メタルとハードコア、および両ジャンルのファンの交流が盛んになる。

1980年代後半になると、その過激な歌詞や、攻撃的な音楽性からスラッシュメタルを避けてきたメジャーレーベルもメタリカをはじめ、アンスラックス、スレイヤー、メガデス、エクソダスといったバンドと契約するようになった。これらのバンドのアルバムは、アンダーグラウンドに留まらず、オーバーグラウンドにおいても商業的に成功し、アメリカビルボードチャートの200位以内に登場するようになる。

その後多くのバンドがメジャーレーベルと契約するようになり、L.A.メタルの衰退と入れ替わるようにスラッシュメタルムーブメントが興った。 しかし、ムーブメントの副産物として似たようなバンドが数多く出現し、スラッシュメタルの粗製濫造ともいえる状態に陥った。 またメジャーレーベルと契約したスラッシュメタルバンドの多くは、聴く人を選ぶ、過激であったはずの音楽性を、より多くの人にアピールすべく(本人達の意志かは別として)変えていった。

1980年末から1990年初頭頃、攻撃性のみを信条としてきたスラッシュメタルは、シーンこそ盛んであったが音楽的には行き詰まり始め、前述のハードコア以外にも様々なを音楽との融合を試みるバンドが現れ始める。 その代表には、ラップを取り入れたアンスラックスや、ファンクを取り入れたデス・エンジェル等が上げられる。 こういったアプローチはクロスオーバーとともに、後に興るニューメタル・ムーブメントに多大な影響を及ぼした。

1990年代に入ったころにはグランジムーブメントが興り、またパンテラやヘルメットのようなスラッシュメタル、ハードコア等から発展したポスト・スラッシュ、グルーヴ・メタル/パワーグルーヴの登場によりその人気は徐々に衰退していった。

特に決定的な出来事として、常にスラッシュメタルシーンを牽引してきたメタリカが1991年に発表した『メタリカ - Metallica - 』(通称ブラック・アルバム)が商業的に大成功した事が挙げられる。これを受け、多くのスラッシュメタルバンドがスピードや攻撃性よりも、重さやグルーブを重視するようになり、従来のファンを失うことになる。ただしムーブメントが衰退した後も更に人気を獲得したスレイヤーや、音楽性がスラッシュメタルから大きく離れた後も人気を保ち続ける、メタリカやメガデスのような希な例もある。

その後、スラッシュメタルの攻撃的な側面は、より過激なデスメタルや、グラインド・コアといった音楽に引き継がれていった。 また、フォビドゥン、ヴァイオレンスのギタリストだったロブ・フリンはマシ?ン・ヘッドを結成し、ポスト・スラッシュ・バンドとして人気を獲得した。

現在(2008年)でもスラッシュメタルに分類されるバンドにはスレイヤー (Slayer) 、クリーター(Kreator)、ソドム (Sodom) 、デストラクション (Destruction) 、エクソダス (Exodus) 、テスタメント (Testament) 、デス・エンジェル (Death Angel)、オーヴァーキル(Overkill) などがある。

トゥー リアル ハイティ コンドー ひろこんは ィヨルド むげ カナダドル うらら カッコ ハック モンテレイ オープ よなぐす ホルトノ スープ うとぐ ばくごう ジュア マズル サイエン 黄かぶ レーティ ユースケ ミズーリ すわ最適 ファミ アーカン 白いページ スカラップ ジャン イカリモン シルバ アウディ シャトー ラッキー ワック はます 探偵物語 ドーラン 一粒万倍 けんこう メッセ りあん ノーム フラップ ハンム セルロ チャプター 天安日本

2009年03月24日

名鉄モ800形電車 (初代)

名鉄モ800形電車(めいてつも800がたでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)の前身で名古屋以西北の多くの路線を建設した会社である名岐鉄道が、1935年(昭和10年)に製造した電車である。

現在の名古屋鉄道(名鉄)は、1935年(昭和10年)8月に名岐鉄道と愛知電気鉄道(愛電)という、名古屋の西と東方面にそれぞれ路線を所有していた会社が合併して成立したものであり、同年4月に製造されたモ800形は、名岐鉄道最後の新製車両となるものであった。

この電車は、18m級車体・150PS級主電動機(架線電圧1500V時)・電動カム軸式自動加速制御器・自動空気ブレーキなど、後続のモ850形電車等の1950年代前半までに名鉄が新製した車両に共通する基本スペックを確立した車両である。800形に始まるこれらの名鉄大型吊り掛け駆動方式電車は、「AL車」と総称された。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

なお、狭義には同型のモ830形・ク2310形、広義には流線型の850系電車を含めて800系と総称することもある。

名岐鉄道 [編集]
名岐鉄道は、元々名古屋電気鉄道(名電)という名古屋市内における路面電車の運営を行っていた会社であったが、1912年(明治45年)に押切町駅(廃駅) - 枇杷島間の路線を路線を開業させたのを端緒に、現在の犬山線・津島線など、郊外線と呼ばれるアメリカのインターアーバン的な路線も建設するようになった。だが、市内線営業では運賃値上げ問題を巡って市民から施設や車両が放火されるなど、運営の混乱が続いたこともあって路線を名古屋市に譲渡することになった。1920年(大正9年)8月に、名古屋電気鉄道は郡部線の営業を新設会社の(旧)名古屋鉄道へ譲渡し、1922年(大正11年)には名古屋市電へ市内線部門を譲渡して解散した。これにより、それまでの重要な収益源であった市内線を失った(旧)名古屋鉄道は、おまけのようであった郊外線部門を重点視せざるを得なくなり、そのためもあって名古屋市と岐阜市という2つの県庁所在地を結ぶ都市間路線を形成することを目論むようになった。

1930年(昭和5年)8月、岐阜市周辺の路面電車などを経営していた美濃電気軌道を合併した(旧)名古屋鉄道は、翌月名岐間輸送を社の重点目標としたことから、社名も「名岐鉄道」と改称した。このとき完成していたのは新岐阜駅(現・名鉄岐阜駅)-笠松駅(現・西笠松駅)間と新一宮駅(現・名鉄一宮駅)-押切町駅間であり、残存区間が完成したのは1935年(昭和10年)4月29日と、昭和天皇の天長節に合わせた格好になった。

これに伴い、押切町駅 - 新岐阜駅間で特急電車の運転が開始された。そのために製造されたのがこのモ800形(製造時の形式はデボ800形)である。

車両概要 [編集]
1935年(昭和10年)に、名岐鉄道初の18m級(車体外寸17500mm・最大長18330mm)大型車両として、日本車輌製造で両運転台式電動車10両(デボ801?810)が製造された。クロスシートを装備し、内装も特急用としての風格が備わった。電装品はイギリス・イングリッシュ・エレクトリック社の電装品を旧名古屋鉄道時代から多く使ってきた経緯から、そのライセンシーである東洋電機製造製の機器類が搭載された。定格出力90kW(600V時)のTDK-528系主電動機と、電動カム軸制御器ES-509を装備しており、従来の名岐鉄道の小型車に比べて格段の性能向上を成し遂げている。

同年8月、愛知電気鉄道(愛電)と名岐鉄道が合併して(新)名古屋鉄道(名鉄)が発足すると、形式はモ800形に改められ、内2両は電装品を外されて制御車のク2250形となった。

1937年(昭和12年)には制御車のク2300形が2両増備され、さらに翌年には付随車のサ2310形も5両製造された。このサ2310形は、後に運転台が取り付けられて制御車のク2310形になっている。

戦時中になると、軍事関連の輸送量が増加したことから混雑を緩和するため座席がロングシート化された。さらに電動車が求められるようになったため、制御車のク2250形とク2300形が電装されて各々モ800形(モ809・810)と新形式モ830形に編入されている。新番台が830となったのは、その前に「幻の820形」が計画されていたためだと言われている。

戦後、1948年(昭和23年)には旧名岐鉄道線の昇圧が行われたため、モ800形には直流600Vから1500Vへの対応工事が施された(これに伴い、元々1500V仕様であった主電動機の定格出力は110kW級に向上した)。そして1957年(昭和32年)になると、上記モ809・810を除く8両の片側の運転台が撤去され片運転台車両となった。

また、モ800形(モ809・810)、モ830形共にそれぞれ時期は異なるが850系電車の中間車として組み込まれていたこともあった。その他の時期においてはモ830形はク2180形と、それの揖斐線転出後はク2500形と組んでいた。1960年代に3500系(初代)、3800系やHL車などが一部転換クロス化されたのに対し、本系列のオリジナル車ではとうとうクロスシートは復活せず、そのためか内装は最後まで木製・ニス塗りのままで残っていた。

1969年(昭和44年)、制御車のク2315が福井鉄道に譲渡され、またモ803が東芝府中工場へサイリスタチョッパ制御の試験を行うため譲渡された。そして1981年(昭和56年)には3880系の一部廃車に伴う3両編成補充のため、出自の異なるモ3500形3両が両運転台化のうえモ800形に編入されている(3502・3503・3505→812~814。この時、車番を在来車の続番にしたため、鉄道ジャーナル誌1981年12月号の「LOCAL NEWS」欄では「モ800形を増備?」と話題になった)。この3両だけは転換クロスシートを備えていた。

しかし老朽化が進んだこともあって、1971年(昭和46年)から1996年(平成8年)に順次廃車され、最後まで残ったモ811とモ812のうち、オリジナルの800形であるモ811と3400系の併結で、1996年4月7日にさよなら運転を行い廃車された。最後まで残ったモ811とモ812(モ812はモ3500形の編入)は、いずれも両運転台車(モ811は1981年に片運転台から再び両運転台に改造・改番(モ802→モ811)した車両、鉄道線最長在籍電車)であった。また、この2両は3730系などと同様に、鉄道線最後の非冷房車でもあった。

運用 [編集]
当初、押切町駅?新岐阜駅間の特急電車に投入されたときは、1時間ヘッドで運転され同区間を34分で走破した。またそれと互いに、これまた1時間間隔で運行されていた急行電車の場合は40分となった。なお当時名鉄線に並行する鉄道省東海道本線の、比較対照区間である名古屋駅?岐阜駅間における所要時間は、1日3往復ある快速列車が35・36分、それ以外の普通列車だと最速38分であった。なお、当時名岐鉄道は名古屋電気鉄道時代の名残で名古屋市電に乗り入れをしており、市中心部の柳橋駅をターミナルにしていたが、モ800形電車は大型で乗り入れができなかったため、同形式を使用する電車は押切町駅発着とし、犬山線・津島線の柳橋駅発着電車と同駅で接続させていた。

1948年(昭和23年)に旧愛電・名岐両線の架線電圧が統一され線路がつながると、東西直通運転が開始されモ800形も旧愛電線に足を伸ばした。しかし3850系・3900系・5000系のような後継車両が新製されると、次第に優等列車の座を追われてローカル運用が多くなった。なお、全在籍期間を通じて両運転台車があったため、単行運転や奇数両の編成を組むのに重宝がられ、特にそれが6両在籍した1980年代には、両運転台車の重連運転もよく見られた(最大4重連や、3重連に3300系(2代)を連結した6連、また珍しいところではAL車混成による7連運行が確認されている)。最後の運用の場は、広見線など犬山地区の路線であった。

保存車 [編集]
モ811が豊川市の日本車輌製造豊川製作所において、車体は運行開始時から1970年代までの深緑色に塗られて低運転台に復元され(パンタグラフ側の前面雨樋のカーブが原型と少し異なる)、車内は扇風機が外され、蛍光灯から白熱灯に戻されて静態保存されている。なお、同車は車番標記を801に変更している。また片運転台のモ805は、制御車のク2313と共に豊田線での試験計測運転に使われた縁で、豊田市の鞍ヶ池公園に2両とも展示されている。

2009年03月08日

底辺への競争

底辺への競争(ていへんへのきょうそう、Race to the bottom)とは、国家が外国企業の誘致や産業育成のため、減税、労働基準・環境基準の緩和などを競うことで、労働環境や自然環境、社会福祉などが最低水準へと向かうこと。自由貿易やグローバリゼーションの問題点として指摘されている。

底辺への競争という言葉は、1933年、合衆国最高裁判所の判事によって用いられている。当時は世界大戦間の自由貿易が拡大した時代であり、そしてその一方で世界恐慌による不況の中、保護貿易が主張された時代でもあり、現在の状況と類似した面があるといえる。

自由貿易や、それを含めたグローバリゼーションが進展することによって、モノ・ヒト・カネの国際的な移動が行われるようになると、各企業はより有利な条件を求めて工場などを移転したり、最も条件の良い国に対して投資を行い、そこで生産された製品を世界各国に輸出することが可能になった。これに対して肯定的な意見として、各国の強みを生かした最適の立地において生産が行われることで、これまでよりも安い価格での生産が可能となり、社会全体としてより豊かになると言われる。

しかし、工場などが国外に移転し、あるいは安い製品が大量に輸入されるようになると、国内の国際競争力に劣る産業は衰退し、労働賃金の低下や失業の増加をもたらすことにもなりかねない。このような事態を避け、企業を誘致し国内産業を守るため、各国は法人税率や企業が負担する社会保障費を低下させ、労働基準・環境基準などの企業活動を抑制する規制を緩和するインセンティブを持つこととなる。

国家が、無駄な規制を緩和し、行政にかかる費用を削減し、効率的な政府を構築することで税などの負担を減少させるのであれば、それは望ましい競争である。しかし、本来必要な税が徴収されず、必要な規制までもが緩和され、あるいは違法行為が黙認されることで、社会福祉水準の低下、自然環境の破壊、児童労働や労働環境の悪化などがもたらされる場合もあり、底辺への競争として、自由貿易やグローバリゼーションの問題点とされる。

理論
底辺への競争は、ゲーム理論、囚人のジレンマによって説明することができる。個々の主体の最適な行動が、全体として最適な選択とはならないものの一つである。

例として単純な法人税の低減競争を挙げると、以下のようになる。

仮に、二つの国の法人税が同じ30%であって、各国で企業が100億円の利益を上げているとすると、それぞれ30億円ずつ税収がある。税率が同じであり、企業は移動しない。(A.30 B.30)
一方の国(A)が、法人税を20%にすると、もう一方の国(B)から企業が移転し、企業の利益は合計200億円になるので、20%の税率でも40億円の税収が見込める。つまり、この選択はAにとって10億円の税収増をもたらす。(A.30→40、B.30→0)
しかしこれではBは税収がなくなってしまうので、これを避けるため、Bは税率を10%とする。Aから企業が移転し、企業の利益は合計200億円、10%の税率で20億円の税収となる。2の状況と比較すると、この選択はBにとって20億円の税収増をもたらす(A.40→0、B.0→20 )。
しかしこれではAは税収がなくなってしまうので、これを避けるため、Aは税率を5%とする。Bから企業が移転し、企業の利益は合計200億円、5%の税率で10億円の税収となる。3の状況と比較すると、この選択はAにとって10億円の税収増をもたらす(A.0→10、B.20→0)。
以下繰り返し。
各国はその時々において税収を増加させるべく妥当な行動しているのであるが、結局は税収を失っていく。

抑制・対策
底辺への競争は実際には上述の例のような事態にはなっていない。これは、現実には底辺への競争が様々な要因により抑制されているためである。

移転のコスト
現在、自由貿易やグローバリゼーションが進展しているとはいうものの、いまだ他国への移転にはコストがかかり、リスクが存在するため、企業や工場、人や資金などの移転はある程度抑制されている。

輸送・移転のコスト
交通網が整備され、輸送にかかるコストはかつてより低いものとなったが、それでもなお国際的な物資の輸送には相応のコストが必要である。企業や工場の移転はそのコストを上回る利益が見込まれなければ行われない。また、企業や工場には物資だけでなく人員も必要である。人の移動は、言語や習慣などの文化的な面での制約もあって容易ではなく、移転先での新しい人員の確保や移転元で不要となった従業員の解雇にも大きなコストが必要となる。
また、新たに移転先の法律などの知識や各種の情報、人脈などを獲得することも必要である。
移転のリスク
移転時において、自由貿易や緩い規制、低い税率などの有利な政策が行われているとしても、将来それが維持されるかは不明である。特に政情の不安定な国家では、政策変更の危険が大きなものとなる。移転にはコストがかかり、政策が変更されたからと言って簡単に戻ることはできないため、移転が失敗に終わる危険がある。

規制
輸出入や生産、投資活動は、様々な形で規制されている。たとえ安く生産できたとしても、それを安く国内において売ることができるとは限らない。

関税
国家が輸入品に関税を課すことによって、国外の商品の流入を抑制し、国内産業を保護することができる。但し高率の関税は、自由貿易やWTOの考えに反するものである。
輸入に対する規制
安全や環境、あるいはダンピングなどの理由により、輸入が規制される場合がある。農産物の輸入に関する農薬についての規制や、牛海綿状脳症(BSE)に関する規制、あるいは、水銀などの有害な金属を利用した製品の輸入規制など。また、急激な輸入品の増加に対して、セーフガードが発動される場合もある。
国際法・国際機関による規制
過酷な労働や環境破壊などについて、各種の条約などによって国際的に規制がなされている。例えば、経済的搾取と見られるような児童労働は、子供の権利条約によって禁止されており、労働条件や生活水準の改善を目的としてILOが設置されている。
このような国際的基準による規制は底辺への競争を抑制するが、原則として当該国家の同意が無ければ国際法による規制は及ばない。また、何をもって国際基準とするかについて各国の利害対立があり、例えばアメリカの基準の押し付けが行われているとして、アメリカニゼーションなどと批判されている。
ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク

その他
国際的非難
環境破壊や過酷な労働条件、児童労働、人権侵害などに対して、国家により様々な形で圧力が加えられることがある。このような圧力は、問題のある生産活動を抑制し、底辺への競争を避けるものであるが、一方で、他国に対する内政干渉ともなり、どこまでが正当なものかを判断するのは困難である。一般的に、厳しい規制を求める先進国に対して、発展途上国は経済成長の権利を主張することが多い。
企業イメージ・消費者運動など
たとえある行為が工場の存在する国家で認められていたとしても、環境破壊や人権侵害などが行われていた場合には、その企業のイメージを悪化させ、商品の販売などに悪影響をもたらすことで底辺への競争が抑制される可能性がある。例えば、ナイキ社の製品について、東南アジア諸国の生産委託先工場における児童労働や強制労働、セクハラなどの問題が暴露された際には、不買運動などの反対キャンペーンが展開された。
また、発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す、フェアトレードの運動なども行われている。

2009年02月20日

バース星

バース星( - せい)は、テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマトIII』に登場する架空の惑星。
ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー

地球から1500光年、ボラー連邦から35000光年に位置する近隣恒星系バジウド星系第4惑星である。最高温度は摂氏5℃と気候は冷涼で、針葉樹林に覆われているなど、大気や鉱物組成、植物の分布状態などは地球と酷似している。

元来は独立国家「惑星国家バース」を名乗っていたが、劇中世界(西暦2205年)の10年ほど前に、ボラー連邦の保護国となった。総督府が置かれ、総督ボローズが統治していた。保護国にした理由についてボローズは「絶えず諸国家からの侵略の危機に見舞われ、独立を守れなかったため、ボラー連邦が救援の手を差し伸べた」としている。しかし、ヤマト乗組員の多数はボラー連邦が本星を侵略したと解釈していた。

本星はボラー連邦本国で犯罪を犯した囚人を移送する流刑地として使用されていた。森林や雪原には強制収容所や処刑場が建設され、ビーム柵の中で囚人が多数収容されていた。

バース星人
惑星の原住民の外観は、肌の色が緑色である以外は地球人類と酷似している。肌の色から白色彗星帝国(ガトランティス)人と容姿が酷似している。しかし、バース星人の特徴として、欧米人風な彫りの深い顔立ちで、太目の眉毛、天然パーマの栗色・茶色の髪を持っていることなどから、両者の区別が出来る。

ラジェンドラ号の艦長ラムのように軍人や警備隊に登用されており、ボラー人に虐げられる描写はなかったため、平等に扱われている様子。だが、ラムの会話から、バース星の人々はボラー連邦による統治を良くは思っていない可能性も捨てきれない。

バース星軍
バース星軍人はラムのように、ボラー連邦よりも故国バース星への忠誠(愛着)心が強いものと思われる。地球に対しては友好的に接していた。ラジェンドラ号は、地球から補給・修理してもらった恩のため、ヤマトを見捨てることが出来ず、ガルマン・ガミラス艦隊の攻撃を受け散華するなど、非常に礼儀を重んじる描写がなされた。軍服はボラー連邦軍とは異なった独自のデザインのものを着用している。

バース星艦隊は、ボラー連邦から供与された多数の戦艦Aタイプ・戦艦Bタイプ・バルコム艦の同型艦で編成し、ラジェンドラ号を艦隊旗艦にしていた。ラジェンドラ号は、同型艦が登場しなかったため独自開発のようだ。

劇中の描写
第1話で、将軍ダゴン率いるガルマン・ガミラス帝国東部方面軍第18機甲艦隊と、ラムのバース星艦隊は太陽系近くで艦隊戦を繰り広げる。バース星艦隊は、惑星破壊プロトンミサイルを使用したガルマン・ガミラス軍に大敗を喫した。因みに、この戦いの流れ弾が太陽に突入し、太陽の核融合異常増進を招くことになる。

第2~3話で、両軍はバース星近くで艦隊決戦を行い、惑星国家バースはガルマン・ガミラス帝国に事実上敗北した。ダゴンはその勢いで地球連邦が宇宙開発をしているケンタウルス座アルファ星の第4惑星を攻撃する。その背後からバース星残存艦隊は奇襲をかけるも、戦況は不利のままであった。両軍とも太陽系内空域に小ワープし、戦闘を続けた。

第5~6話、バース星艦隊で唯一生き残った、旗艦ラジェンドラ号は、大破して太陽系に漂着する。宇宙戦艦ヤマトの好意で海王星の宇宙船ドッグで食料・燃料の補給と機関の修理を受けるが、追跡してきたガルマン・ガミラス軍第18機甲艦隊によって撃沈される。ヤマトも戦闘に巻き込まれ、ガルマン・ガミラス帝国と対峙することになった。

第11~12話、ヤマトはバース星近辺に到達し、警備隊長レバルスのボラー連邦艦隊は威嚇攻撃を加える。ラムの打電でラジェンドラ号を助けた艦がヤマトであることを知っていたレバルスは、古代進の通信によって誤解が解けた。ヤマトを艦体点検と植物採集のため、ボラー星に3日間寄港することを許可し、総督ボローズも歓迎する。

しかし、ボラー連邦から移送されたシャルバート信者を中心とした流刑者が、シャルバート星に向かうことを目的にヤマトを占拠したことで状況が一変する。この囚人達が拘束された際、古代はレバルスに寛大な処置をとるようボローズに頼むよう話した。バース星に艦隊を引き連れ状況視察に赴いたボラー連邦首相ベムラーゼは、シャルバート信者の処刑を指示したため、古代の願い虚しく処刑が執行された。

この出来事で古代とベムラーゼは口論となり、ヤマト(地球)を敵国と決め付けたベムラーゼは、表敬に来た古代達とヤマトを捕らえることを命令する。閲兵式を謁見していたベムラーゼは、古代たちの始末に手間取っている警備隊を見て、ボローズにヤマト撃滅を命令。バース星に駐留していたボラー艦隊はヤマトと一戦交えるが全滅。ベムラーゼは、自分に逆らうヤマトとボローズの不手際に「あのような醜い星は二度と見たくない」と怒り、多数の惑星破壊プロトンミサイルでヤマトもろともバース星を消滅させようとする。ヤマトにミサイルをかわされるも、ミサイルは惑星に全弾命中し、ボローズをはじめ、多くの味方を巻き添えにしてバース星を破壊した。

2009年02月04日

守護地頭

大江広元に関して、これまで最も注目されてきたのは、1185年(文治1)11月12日条の、広元が「守護地頭」設置を献策したという下りである。かつてはこれが「守護地頭」の始まりとされた。そして、同年11月28日条には、北条時政がその「守護地頭」の設置を朝廷に要求したとある。しかし、同じ事実を書き記した九条兼実の日記『玉葉』には、「守護地頭」とは書かれていない。そこには「件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行すべしと」とある。
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

1960年に石母田正は、「鎌倉幕府一国地頭職の成立」[17]などでこの問題に鋭く切り込み、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘した。そして、この石母田の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起り[18]、この「守護地頭」設置の時期は「国地頭制」として守護制の前段階と解されるようになった。

北条時頼の遺曷
北条時頼について八代国治が指摘するのは、1263年(弘長3)11月22日条の卒去の記述である。時頼の「頌云」[19]の「業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然」は、『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。しかし別人の遺曷を本人の遺曷として紹介することは、後世の史料にはよく見られることである[20]。その例としては、『扶桑五山記』にある蘭渓道隆の遺曷があり、そこでも妙堪の遺曷が使われている[21]。当然ながら蘭渓道隆が人の遺曷の盗作を行ったわけではなく、蘭渓道隆本人の遺曷は別に存在する。

北条時頼の遺曷に戻れば、『吾妻鏡』とそれほど深い関係があるとは見られていない『鎌倉年代記』にも北条時頼の遺曷として『吾妻鏡』と同じく妙堪のものを載せており、益田宗は「時頼が死んだ弘長3年(1263)から、吾妻鏡の編纂時期まで3?40年ある以上、巷間に作られていた時頼遺曷なるものを、編纂者がそのまま本文に採用したと考えるのが当たっているのではあるまいか」[22]とする。

吾妻鏡の曲筆と顕彰
『吾妻鏡』に北条得宗家の顕彰、そしてその為の曲筆が非常に多いことは古くから指摘されており、例えば江戸時代後期の国学者大塚嘉樹(よしき)は『東鑑別注』 [23] において、1186年(文治2)4月8日条の静御前に鶴岡八幡宮で舞をさせたときの記事、1189年(文治5)4月18日条の北条時房(当初時連)の元服記事、1192年(建久3)5月28日条の北条泰時の記事などを挙げて『吾妻鏡』編纂者による北条氏顕彰の為の曲筆と断定した。また土佐の宮地仲枝は「東鑑の考」 [24] において、1201年(建仁1)10月6日条の記述を紹介し「此文などかの家の記録とあらずとせんや」としている。

吾妻鏡の曲筆
それらの中で、北条時政を、あるいは義時の行動を正当化するの為の曲筆とされている代表的な2例を紹介する。

源頼家
『吾妻鏡』の曲筆のもっとも甚だしいのが頼家将軍記である。源氏が三代で終わったのはこういう不肖の息子が居たからかだと誰しも思うが、それが真実の姿であった証拠は何もなく、逆に曲筆と疑われるものは無数にある。曲筆の確実なものは、源頼家の最期である。頼家が将軍の座を降りたのは『吾妻鏡』によると1203年(建仁3)9月2日の比企能員の変の直後、9月7日条での頼家出家であり、9月10日条で源実朝が将軍を継ぐことを決定したとある。そして、その頼家の死は翌年の7月19日条とある。

しかし、1203年(建仁3)9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が、同年9月7日早朝に京の朝廷に到着し、実朝を次期征夷大将軍に任命するよう要請していることが、近衛家実の『猪隅関白記』、藤原定家の『明月記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などによって知られている。『吾妻鏡』によれば頼家が存命どころか、まだ出家(引退)もしていないにもかかわらずである。この当時の鎌倉と京は、普通の使者ならば2週間、至急の知らせでも約1週間かかり、早馬を乗り継いでも9月1日か2日に鎌倉を出発していなければならない。仮に9月2日に鎌倉を発ったとしても、比企能員の変は同日夕方近くに起きた事件であり、頼家の将軍廃立は当初より予定されたことか解る。

畠山重忠
『吾妻鏡』の中では、畠山重忠の乱で人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は、北条時政の後妻で悪名高き牧の方とされ、北条義時は1205年(元久2)6月21日条で畠山重忠の謀殺に反対し、父時政に「今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし」と熱弁をふるう。これはその後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。原勝郎はこれを評して「若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべしと述べている[26]。

得宗家の顕彰
先の2例は、北条氏の行動の正当化の色合いが強いが、次ぎに顕彰の代表例を、時政、泰時、時頼の3人について紹介する。内2例は顕彰の為の露骨な曲筆でもある。

北条時政・文治2年5月6日の院宣 
1185年(文治1)11月25日から翌1186年(文治2)3月27日頃まで、北条時政は頼朝の代官として在京していた。この頃より1187年(文治3)頃までは、京と鎌倉の間で緊迫した政治折衝が行われていた時期であり、『吾妻鏡』には院奏や院宣、頼朝から公卿への手紙などが多数掲載されている。

そうした院宣のひとつに、後白河法皇が北条時政を褒める一文が間に挟まっている。1186年(文治2)5月13日条にある5月6日付けの院宣である。この時政顕彰の文を飛ばして読むと、非常に文意のはっきりした院宣らしい文章になり、龍福義友[27]は、これを「時政顕彰の為の捏造[28]」と推定する。また、それとも関連する1186年(文治2)5月20日条にある頼朝の院奏の趣旨の前半は『吾妻鏡』編纂者が想像で補ったものであり、これには物的証拠がある。同年4月20日に頼朝が出した院奏の実物が、九条家の古文書の中から発見されているのである[29]。『吾妻鏡』の記述と院奏の実物はテーマは同じであるものの、主張している内容は全く異なる。それらの事から、同年5月6日の院宣に出てくる「去月廿日の御消息」は編纂者の元にはなく、しかしそれに言及しなければ話はつながらないと想像で補った(偽造した)ものであろうと見られている。

この時期は鎌倉幕府の性格を決定する非常に重要な時期であり、『吾妻鏡』はその最も重要なまとまった史料であるが、そのなかには以上のような例も混在し、非常に注意深く読んでいかなければならない箇所とされる。

北条泰時・正治2年4月8日条
北条泰時の顕彰で象徴的なものが1200年(正治2)4月8日条である。女院殿上人であった若狭前司保季(藤原保季)が、御家人の郎従(武士)の妻と白昼密通していたところへ、夫が六波羅から帰ってきた。怒ったその武士が太刀を取って保季を追い、斬り殺した。その武士を捕らえてあるが、どう裁いたらよいだろうと京の六波羅から鎌倉に早馬が来る。それに対して大江広元から意見を求められた北条泰時は、「郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害するなど、武士の本分にもとる行為だ。それも白昼路上で行うなどもってのほか。直ちに厳罰に処すべきである」と言ったとある。 この記述は盗作である[30]。この事件は、実は藤原定家の日記『明月記』同年3月29日条に書かれており、泰時が語ったという台詞は藤原定家の感想(憤慨)[31]を写したものである。

北条時頼・仁治2年11月29日条
1241年(仁治2)11月29日条と翌30日条にはこう書かれている。有力御家人の三浦氏と小山氏との間で、ささいなことからあわや一戦にという事件が起った。北条経時は、この事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと、配下の者を武装させて差し向けた。それに対して経時の弟の北条時頼は、酒の場での喧嘩だからと静観していた。 二人の祖父である北条泰時は「各々将来御後見の器なり」、つまり二人とも将来執権になろうという者であるのに、兄の経時は「諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。所為太だ軽骨(軽率)なり、暫く前に来るべからず」と怒った。一方、弟の時頼には「斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」と褒めて領地を与えたというのである。時頼が15歳のときである。

兄の北条経時は、祖父泰時の後を継いで19歳で第4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り出家、その直後に死亡する。そして『吾妻鏡』は、そもそも時頼の方が優れていて、泰時の眼鏡にも適っていたのだと言っている。

吾妻鏡の原資料
吾妻鏡の原資料の全体像について際だった研究を行ったのは、大正時代の八代国治と最近では五味文彦である。五味文彦は『吾妻鏡』の原史料として3つの類型「幕府事務官僚の日記・筆録 」「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」が浮かび上がるとする。ここでは説明の都合上「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」に「京系の記録」を追加して先に説明し、最後に将軍記毎に「幕府事務官僚の日記・筆録」を見ていく。

後に提出された文書
地頭・御家人、寺社などから、訴訟の証拠や由緒として提出されたと思われる文書である。しかし訴訟の証拠書類だろうと思われるものの中には、明らかに偽文書と思われるものが混じっている。1205年(元久2)閏7月29日条にある河野通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書はその代表例である。それらのことから幕府の中に保管されていた文書は実はほとんど無く、後世に提出された書類から採録したものがかなりの量に及ぶだろうと推測される。有力御家人の伝承の項で触れた1192年(建久3)8月5日条などは千葉氏の家伝と思われる。

幕府中枢に残る公文書類
次は公文書類である。それらは政所などの役所に保管されていたものもあろうが、その文を書いた事務官僚の下書きが、あるいは得宗家の寄合での決定が、政所や問注所の執事の家に伝えられて『吾妻鏡』の編纂時に利用されたと思われる。1232年(寛喜4)12月5日条に、北条泰時が「所処に散在」してしまった大江広元時代の記録を集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったとあり、その記事自体が、長井泰秀の家に保管されていた記録が『吾妻鏡』に利用されたであろうことを物語っている。頼朝将軍記に多数見られる朝廷からの院宣などもそこに含まれていたと思われる。1185年(文治1)12月6日条にある「院奏の折紙状」は『玉葉』が情報源とも見られていたが、平田俊春はこれを詳細に検討[32]して、幕府政所にあった案文に拠ったのであろうと推定し、以降それが定説となっている。

京系の記録
大正時代初期の八代国治は、『吾妻鏡』と諸史料との突き合わせを行い、公卿の日記その他京系の多く史料が原史料となっていることを見つける。そして『吾妻鏡』の該当箇所と、オリジナルであろうとするものの該当箇所計29ヶ所を具体的に紹介した。その内、藤原定家の『明月記』が史料として使われている部分が非常に多く、14ヶ所とほぼ半分を占める。それらのことから、『吾妻鏡』は日記の体裁を取りながらも、明らかに後世の編纂物であると八代は断定した。

八代国治が指摘した文献との関係ついては、先に触れた通り『玉葉』については否定され、また五味文彦は『平家物語』や『承久記』、そして平田俊春が戦前に主張[33]した『六代勝事記』も使われた形跡は無く、それらの元となった史料合戦記などを利用したのではないかとする。そうした修整はあるものの『明月記』の他、『金槐和歌集』からの引用などは確かに確認され、後に佐藤進一は『飛鳥井教定記』も原史料のひとつに加えている[34]、五味文彦は『十訓抄』なども二階堂行光の顕彰記事に利用された可能性があるとする。

2009年01月21日

クロスカントリースキー(英語:Cross-country Skiing)

クロスカントリースキー(英語:Cross-country Skiing)は雪の積もった野山をスキーで駆けるウィンタースポーツで、 個人でゆっくり散歩のように楽しんだり、 時間を競う競技スポーツとしての楽しみもある。 とくにヨーロッパやカナダで盛んである。「XCスキー」と略されることもある。

クロスカントリー・スキーは、 ノルディックスキーの一種で、 斜面を滑り降りるアルペンスキーとは異なり、平らな所を進んだり斜面を登るための工夫が施されたスキー板を使用する。 一般的なものは 幅が5〜6cmと細く、非常に軽く作られている。 アルペンスキー用のような金属エッジも付かない。 弓のように反っていて、 体重をかけない状態では前端と後端は接地して中ほどの足を乗せる辺りが浮くようになっている。

クラシカル走法では、 後ろには滑らずに前にだけ滑るようにしたスキー板を使って、両足につけたスキー板を左右のスキーを平行に保ちながら交互に前後させて進む。スケーティング走法が禁止され、ワックス選定が勝負を左右する。一方フリースタイル走法(スケーティング走法)ではスケートのように、 前にも後ろにも滑るスキー板を逆ハの字形に開いて片足で踏み蹴ってもう片方に乗り込み推進する。従ってスピードが出る。

クラシカル走法のためにはスキー板に次のいずれかの工夫を施す。

前端と後端には摩擦が小さくなるようなワックスを塗り、中ほどには摩擦が大きくなるようなワックスを塗る
スキー板の中ほどをうろこ状に加工する
細長く切った毛皮(シールと呼ばれる)を毛並みが後ろ向きになるようにスキー板に被せる
いずれも踏みしめたほうのスキー板が後ろにずれないので足がかりになる。

競技種目
ノルディックスキーとしてのクロスカントリー競技は、距離の短いスプリントから男子50km・女子30kmと、距離の種類が多く、スキー競技の中で種類も最も多い男女計12種目となる。走法も上記のクラシカルとフリーの2種類があり、いずれも優れた持久力と滑走テクニックが要求される。また、ワックスの選定も勝敗に関わる重要な要素である。

2007年2月22日から北海道札幌市で開催されたFISノルディックスキー世界選手権札幌大会において、世界初の札幌ドームを用いた、室内⇔室外を使っての競技が行われ、その中で日本選手が活躍し、関心が高まりつつある。

クラシカルテクニック(Classical Technique)
クラシカル走法の個人種目。スタートラインは斜め(「く」の字型))に引かれており、予選ランキングのよい選手から有利なスタート位置を確保できる。実施種目は女子10kmクラシカル、男子15kmクラシカル。

フリーテクニック(Free Technique)
グライディングする時にスケーティングで滑ることのできる種目。選手は30秒間隔でスタートし、選手ごとに計時する。スタート順はいくつかのグループに分け、グループごとにドローを行ってスタート順を決める。実施種目は女子30kmフリー、男子50kmフリー。

ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

スプリント(Sprint Event)
距離は女子が1.2km、男子は1.4km。クラシカル走法で行い、最初に個別スタートでタイムトライアルを行って、上位30名(コースによっては16名)が決勝トーナメントに進出できる。準々決勝は4人1組で選手が同時一斉にスタート(マススタート)し、各組の上位2名、計8名が準決勝進出できる。準決勝も同様に各組2名が勝ち上がり、計4名で決勝を行う。決勝も同じように4人が一斉にスタート。30人の決勝トーナメントではタイムは計測せずポートフィニッシュ(写真判定)で順位を決定する。2008年2月にスウェーデンのストックホルムで行われたワールドカップで夏見円が日本勢として初の3位に入る快挙を成し遂げた。

チームスプリント(Team Sprint)
競技方法は、1チーム2名でリレーをしながら交互に、各々3回交代して走る。マススタートでスタートしフリーテクニックで走行する。距離は女子1.2km、男子1.4km。先の札幌大会では男子は山岸・恩田ペアが12位、女子は福田・夏見ペアは13位という成績を残した。

ダブルパシュート(Double Pursuit)
男子は前半に15kmクラシカル・後半に15kmフリー、女子は前半に7.5kmクラシカル・後半に7.5kmフリーで同じ距離を異なった走法で走る。マススタートでスタートする。クラシカルを走り終えたらフリー用のスキーに履き替えて後半を走り、合計タイムで競う。先の札幌大会では男子は山岸36位、駒村41位、神津43位、蛯沢46位。女子は横山23位、石田26位、曾根田38位。

リレー競技(Team Competition)
1チーム4名でチームを編成する。女子は1人5km、男子は10kmを走る。スタートはマススタートで、1人目と2人目がクラシカル走法、3人目と4人目がフリー走法で走り、4人の合計タイムで競う。先の札幌大会では夏見・石田・横山・福田で臨み、8位となり、過去日本最高記録を残した。男子は蛯沢・駒村・山岸・神津が15位であった。