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2009年03月 アーカイブ

2009年03月08日

底辺への競争

底辺への競争(ていへんへのきょうそう、Race to the bottom)とは、国家が外国企業の誘致や産業育成のため、減税、労働基準・環境基準の緩和などを競うことで、労働環境や自然環境、社会福祉などが最低水準へと向かうこと。自由貿易やグローバリゼーションの問題点として指摘されている。

底辺への競争という言葉は、1933年、合衆国最高裁判所の判事によって用いられている。当時は世界大戦間の自由貿易が拡大した時代であり、そしてその一方で世界恐慌による不況の中、保護貿易が主張された時代でもあり、現在の状況と類似した面があるといえる。

自由貿易や、それを含めたグローバリゼーションが進展することによって、モノ・ヒト・カネの国際的な移動が行われるようになると、各企業はより有利な条件を求めて工場などを移転したり、最も条件の良い国に対して投資を行い、そこで生産された製品を世界各国に輸出することが可能になった。これに対して肯定的な意見として、各国の強みを生かした最適の立地において生産が行われることで、これまでよりも安い価格での生産が可能となり、社会全体としてより豊かになると言われる。

しかし、工場などが国外に移転し、あるいは安い製品が大量に輸入されるようになると、国内の国際競争力に劣る産業は衰退し、労働賃金の低下や失業の増加をもたらすことにもなりかねない。このような事態を避け、企業を誘致し国内産業を守るため、各国は法人税率や企業が負担する社会保障費を低下させ、労働基準・環境基準などの企業活動を抑制する規制を緩和するインセンティブを持つこととなる。

国家が、無駄な規制を緩和し、行政にかかる費用を削減し、効率的な政府を構築することで税などの負担を減少させるのであれば、それは望ましい競争である。しかし、本来必要な税が徴収されず、必要な規制までもが緩和され、あるいは違法行為が黙認されることで、社会福祉水準の低下、自然環境の破壊、児童労働や労働環境の悪化などがもたらされる場合もあり、底辺への競争として、自由貿易やグローバリゼーションの問題点とされる。

理論
底辺への競争は、ゲーム理論、囚人のジレンマによって説明することができる。個々の主体の最適な行動が、全体として最適な選択とはならないものの一つである。

例として単純な法人税の低減競争を挙げると、以下のようになる。

仮に、二つの国の法人税が同じ30%であって、各国で企業が100億円の利益を上げているとすると、それぞれ30億円ずつ税収がある。税率が同じであり、企業は移動しない。(A.30 B.30)
一方の国(A)が、法人税を20%にすると、もう一方の国(B)から企業が移転し、企業の利益は合計200億円になるので、20%の税率でも40億円の税収が見込める。つまり、この選択はAにとって10億円の税収増をもたらす。(A.30→40、B.30→0)
しかしこれではBは税収がなくなってしまうので、これを避けるため、Bは税率を10%とする。Aから企業が移転し、企業の利益は合計200億円、10%の税率で20億円の税収となる。2の状況と比較すると、この選択はBにとって20億円の税収増をもたらす(A.40→0、B.0→20 )。
しかしこれではAは税収がなくなってしまうので、これを避けるため、Aは税率を5%とする。Bから企業が移転し、企業の利益は合計200億円、5%の税率で10億円の税収となる。3の状況と比較すると、この選択はAにとって10億円の税収増をもたらす(A.0→10、B.20→0)。
以下繰り返し。
各国はその時々において税収を増加させるべく妥当な行動しているのであるが、結局は税収を失っていく。

抑制・対策
底辺への競争は実際には上述の例のような事態にはなっていない。これは、現実には底辺への競争が様々な要因により抑制されているためである。

移転のコスト
現在、自由貿易やグローバリゼーションが進展しているとはいうものの、いまだ他国への移転にはコストがかかり、リスクが存在するため、企業や工場、人や資金などの移転はある程度抑制されている。

輸送・移転のコスト
交通網が整備され、輸送にかかるコストはかつてより低いものとなったが、それでもなお国際的な物資の輸送には相応のコストが必要である。企業や工場の移転はそのコストを上回る利益が見込まれなければ行われない。また、企業や工場には物資だけでなく人員も必要である。人の移動は、言語や習慣などの文化的な面での制約もあって容易ではなく、移転先での新しい人員の確保や移転元で不要となった従業員の解雇にも大きなコストが必要となる。
また、新たに移転先の法律などの知識や各種の情報、人脈などを獲得することも必要である。
移転のリスク
移転時において、自由貿易や緩い規制、低い税率などの有利な政策が行われているとしても、将来それが維持されるかは不明である。特に政情の不安定な国家では、政策変更の危険が大きなものとなる。移転にはコストがかかり、政策が変更されたからと言って簡単に戻ることはできないため、移転が失敗に終わる危険がある。

規制
輸出入や生産、投資活動は、様々な形で規制されている。たとえ安く生産できたとしても、それを安く国内において売ることができるとは限らない。

関税
国家が輸入品に関税を課すことによって、国外の商品の流入を抑制し、国内産業を保護することができる。但し高率の関税は、自由貿易やWTOの考えに反するものである。
輸入に対する規制
安全や環境、あるいはダンピングなどの理由により、輸入が規制される場合がある。農産物の輸入に関する農薬についての規制や、牛海綿状脳症(BSE)に関する規制、あるいは、水銀などの有害な金属を利用した製品の輸入規制など。また、急激な輸入品の増加に対して、セーフガードが発動される場合もある。
国際法・国際機関による規制
過酷な労働や環境破壊などについて、各種の条約などによって国際的に規制がなされている。例えば、経済的搾取と見られるような児童労働は、子供の権利条約によって禁止されており、労働条件や生活水準の改善を目的としてILOが設置されている。
このような国際的基準による規制は底辺への競争を抑制するが、原則として当該国家の同意が無ければ国際法による規制は及ばない。また、何をもって国際基準とするかについて各国の利害対立があり、例えばアメリカの基準の押し付けが行われているとして、アメリカニゼーションなどと批判されている。
ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク

その他
国際的非難
環境破壊や過酷な労働条件、児童労働、人権侵害などに対して、国家により様々な形で圧力が加えられることがある。このような圧力は、問題のある生産活動を抑制し、底辺への競争を避けるものであるが、一方で、他国に対する内政干渉ともなり、どこまでが正当なものかを判断するのは困難である。一般的に、厳しい規制を求める先進国に対して、発展途上国は経済成長の権利を主張することが多い。
企業イメージ・消費者運動など
たとえある行為が工場の存在する国家で認められていたとしても、環境破壊や人権侵害などが行われていた場合には、その企業のイメージを悪化させ、商品の販売などに悪影響をもたらすことで底辺への競争が抑制される可能性がある。例えば、ナイキ社の製品について、東南アジア諸国の生産委託先工場における児童労働や強制労働、セクハラなどの問題が暴露された際には、不買運動などの反対キャンペーンが展開された。
また、発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す、フェアトレードの運動なども行われている。

2009年03月24日

名鉄モ800形電車 (初代)

名鉄モ800形電車(めいてつも800がたでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)の前身で名古屋以西北の多くの路線を建設した会社である名岐鉄道が、1935年(昭和10年)に製造した電車である。

現在の名古屋鉄道(名鉄)は、1935年(昭和10年)8月に名岐鉄道と愛知電気鉄道(愛電)という、名古屋の西と東方面にそれぞれ路線を所有していた会社が合併して成立したものであり、同年4月に製造されたモ800形は、名岐鉄道最後の新製車両となるものであった。

この電車は、18m級車体・150PS級主電動機(架線電圧1500V時)・電動カム軸式自動加速制御器・自動空気ブレーキなど、後続のモ850形電車等の1950年代前半までに名鉄が新製した車両に共通する基本スペックを確立した車両である。800形に始まるこれらの名鉄大型吊り掛け駆動方式電車は、「AL車」と総称された。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

なお、狭義には同型のモ830形・ク2310形、広義には流線型の850系電車を含めて800系と総称することもある。

名岐鉄道 [編集]
名岐鉄道は、元々名古屋電気鉄道(名電)という名古屋市内における路面電車の運営を行っていた会社であったが、1912年(明治45年)に押切町駅(廃駅) - 枇杷島間の路線を路線を開業させたのを端緒に、現在の犬山線・津島線など、郊外線と呼ばれるアメリカのインターアーバン的な路線も建設するようになった。だが、市内線営業では運賃値上げ問題を巡って市民から施設や車両が放火されるなど、運営の混乱が続いたこともあって路線を名古屋市に譲渡することになった。1920年(大正9年)8月に、名古屋電気鉄道は郡部線の営業を新設会社の(旧)名古屋鉄道へ譲渡し、1922年(大正11年)には名古屋市電へ市内線部門を譲渡して解散した。これにより、それまでの重要な収益源であった市内線を失った(旧)名古屋鉄道は、おまけのようであった郊外線部門を重点視せざるを得なくなり、そのためもあって名古屋市と岐阜市という2つの県庁所在地を結ぶ都市間路線を形成することを目論むようになった。

1930年(昭和5年)8月、岐阜市周辺の路面電車などを経営していた美濃電気軌道を合併した(旧)名古屋鉄道は、翌月名岐間輸送を社の重点目標としたことから、社名も「名岐鉄道」と改称した。このとき完成していたのは新岐阜駅(現・名鉄岐阜駅)-笠松駅(現・西笠松駅)間と新一宮駅(現・名鉄一宮駅)-押切町駅間であり、残存区間が完成したのは1935年(昭和10年)4月29日と、昭和天皇の天長節に合わせた格好になった。

これに伴い、押切町駅 - 新岐阜駅間で特急電車の運転が開始された。そのために製造されたのがこのモ800形(製造時の形式はデボ800形)である。

車両概要 [編集]
1935年(昭和10年)に、名岐鉄道初の18m級(車体外寸17500mm・最大長18330mm)大型車両として、日本車輌製造で両運転台式電動車10両(デボ801?810)が製造された。クロスシートを装備し、内装も特急用としての風格が備わった。電装品はイギリス・イングリッシュ・エレクトリック社の電装品を旧名古屋鉄道時代から多く使ってきた経緯から、そのライセンシーである東洋電機製造製の機器類が搭載された。定格出力90kW(600V時)のTDK-528系主電動機と、電動カム軸制御器ES-509を装備しており、従来の名岐鉄道の小型車に比べて格段の性能向上を成し遂げている。

同年8月、愛知電気鉄道(愛電)と名岐鉄道が合併して(新)名古屋鉄道(名鉄)が発足すると、形式はモ800形に改められ、内2両は電装品を外されて制御車のク2250形となった。

1937年(昭和12年)には制御車のク2300形が2両増備され、さらに翌年には付随車のサ2310形も5両製造された。このサ2310形は、後に運転台が取り付けられて制御車のク2310形になっている。

戦時中になると、軍事関連の輸送量が増加したことから混雑を緩和するため座席がロングシート化された。さらに電動車が求められるようになったため、制御車のク2250形とク2300形が電装されて各々モ800形(モ809・810)と新形式モ830形に編入されている。新番台が830となったのは、その前に「幻の820形」が計画されていたためだと言われている。

戦後、1948年(昭和23年)には旧名岐鉄道線の昇圧が行われたため、モ800形には直流600Vから1500Vへの対応工事が施された(これに伴い、元々1500V仕様であった主電動機の定格出力は110kW級に向上した)。そして1957年(昭和32年)になると、上記モ809・810を除く8両の片側の運転台が撤去され片運転台車両となった。

また、モ800形(モ809・810)、モ830形共にそれぞれ時期は異なるが850系電車の中間車として組み込まれていたこともあった。その他の時期においてはモ830形はク2180形と、それの揖斐線転出後はク2500形と組んでいた。1960年代に3500系(初代)、3800系やHL車などが一部転換クロス化されたのに対し、本系列のオリジナル車ではとうとうクロスシートは復活せず、そのためか内装は最後まで木製・ニス塗りのままで残っていた。

1969年(昭和44年)、制御車のク2315が福井鉄道に譲渡され、またモ803が東芝府中工場へサイリスタチョッパ制御の試験を行うため譲渡された。そして1981年(昭和56年)には3880系の一部廃車に伴う3両編成補充のため、出自の異なるモ3500形3両が両運転台化のうえモ800形に編入されている(3502・3503・3505→812~814。この時、車番を在来車の続番にしたため、鉄道ジャーナル誌1981年12月号の「LOCAL NEWS」欄では「モ800形を増備?」と話題になった)。この3両だけは転換クロスシートを備えていた。

しかし老朽化が進んだこともあって、1971年(昭和46年)から1996年(平成8年)に順次廃車され、最後まで残ったモ811とモ812のうち、オリジナルの800形であるモ811と3400系の併結で、1996年4月7日にさよなら運転を行い廃車された。最後まで残ったモ811とモ812(モ812はモ3500形の編入)は、いずれも両運転台車(モ811は1981年に片運転台から再び両運転台に改造・改番(モ802→モ811)した車両、鉄道線最長在籍電車)であった。また、この2両は3730系などと同様に、鉄道線最後の非冷房車でもあった。

運用 [編集]
当初、押切町駅?新岐阜駅間の特急電車に投入されたときは、1時間ヘッドで運転され同区間を34分で走破した。またそれと互いに、これまた1時間間隔で運行されていた急行電車の場合は40分となった。なお当時名鉄線に並行する鉄道省東海道本線の、比較対照区間である名古屋駅?岐阜駅間における所要時間は、1日3往復ある快速列車が35・36分、それ以外の普通列車だと最速38分であった。なお、当時名岐鉄道は名古屋電気鉄道時代の名残で名古屋市電に乗り入れをしており、市中心部の柳橋駅をターミナルにしていたが、モ800形電車は大型で乗り入れができなかったため、同形式を使用する電車は押切町駅発着とし、犬山線・津島線の柳橋駅発着電車と同駅で接続させていた。

1948年(昭和23年)に旧愛電・名岐両線の架線電圧が統一され線路がつながると、東西直通運転が開始されモ800形も旧愛電線に足を伸ばした。しかし3850系・3900系・5000系のような後継車両が新製されると、次第に優等列車の座を追われてローカル運用が多くなった。なお、全在籍期間を通じて両運転台車があったため、単行運転や奇数両の編成を組むのに重宝がられ、特にそれが6両在籍した1980年代には、両運転台車の重連運転もよく見られた(最大4重連や、3重連に3300系(2代)を連結した6連、また珍しいところではAL車混成による7連運行が確認されている)。最後の運用の場は、広見線など犬山地区の路線であった。

保存車 [編集]
モ811が豊川市の日本車輌製造豊川製作所において、車体は運行開始時から1970年代までの深緑色に塗られて低運転台に復元され(パンタグラフ側の前面雨樋のカーブが原型と少し異なる)、車内は扇風機が外され、蛍光灯から白熱灯に戻されて静態保存されている。なお、同車は車番標記を801に変更している。また片運転台のモ805は、制御車のク2313と共に豊田線での試験計測運転に使われた縁で、豊田市の鞍ヶ池公園に2両とも展示されている。

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